総合トップ暮らしの情報記事山部地区プロフィール

山部地区プロフィール

公開日:

山部支所

所在地

山部支所の外観写真

〒079-1563 富良野市山部東町7番31号
電話:0167-42-2121
ファックス:0167- 42-3123

山部地区プロフィール

開拓の歴史

山部地区開拓の歴史は、明治30年(1897)札幌農学校(現在の北海道大学)が地質・地形の調査に始まり同32年に開発計画が立てられ、34年に北海道大学農学部が山部第8農場を設けて小作人を募集したときに始まる。
鉄道は、33年に富良野から鹿越まで開通したものの、滝川−富良野間は未開通のため、移住者は旭川を経由しなければならなかった。
募集年最初の入植者は橋本長吉・河原秀吉・登友吉の3戸が22線に開拓の鍬をおろしたのが山部開墾の始まりである。
4年を経過しようやく50戸の農家がすみ、41年には406戸と入植者が増え貸下げはほとんど完了し、その翌年には盛大な成懇記念式が行われ、山部神社境内に成懇記念碑が建立された。

このように、山部の開拓は北海道大学の学田であり、農学部直属の研究農場として各種の試験や実験が行われる一方で、小作人に対しては経営の安定を図るために適作物の栽培技術の指導をしたり、郷里を異にして言語や習慣の違う多様な人たちの集まりであることから自治精神を養い、共励共助の美風を作らせるのに並々ならぬ苦労があった。
「やまべ」という地名の由来は、『北海道駅名の起源』(昭和4年発行)によると、『(アイヌ語の)「ヤム・ペ」(冷たい・水)がなまったものではないかと思われる。』と書かれている。

位置と面積

富良野市街地の南部に位置し、東経142度40分45、北緯43度19分08にわたっており、その形は斧に似ている。面積は東西12.3キロメートル、南北18.2キロメートルで107.84平方キロメートルである。

地勢

三方が山に囲まれ北方のみ開け富良野盆地に連なる。すなわち北海道の背骨とも言うべき大雪・十勝の山系と、夕張山系との狭い谷間を作っているのである。
地域内東方を南北に貫流する空知川と、その支流となる山部川・二五線川・紅葉川・ユーフレ川・十八線川等は山部を登山口とする芦別岳に源を発し約4キロメートルの平地を走り空知川に注ぐ、これらの諸川の流域は土砂の堆積により扇状地を形成し、東に傾いた2,000ヘクタール弱の耕地となっている。山間部は険しく、国有林・公有林で占められているが、その森林面積は7,600ヘクタールである。
東部一帯を占める山地は標高500メートル内外の山並みで、東京大学北海道演習林の所管に属しているが、かってはここで石綿が産出されノザワ鉱山・山部石綿両工場がその原石を採掘するため露天掘りが行われていた。
西部一帯には夕張山系が連なり、屏風のように切立つ主峰芦別岳(1,726.1メートル)がそびえ、南方に鉢盛岳(1,453メートル)、はるか夕張岳の姿が見え、北方には夫婦岩(1,429メートル)、御茶々岳(1,331メートル)更に極楽平を経て富良野西岳(1,330.9メートル)へと連なる。

行政の歴史

山部村は、下富良野から大正4年(1915年)4月1日に分村し、役場は山部市街地2条通南2丁目の現在の曹光寺の境内に仮庁舎を設け、10数名の吏員、総代、その他有志が集まって、ささやかな開庁の式を挙げた。当時の戸数は685戸、人口4,618人であった。
同年11月に、かねて建設中であった庁舎が出来上がったので、戸長役場は移転した。
その後、東山村が昭和15年(1940年)に山部村から分村している。分村の議決は、昭和9年(1934年)に了していたが、昭和15年に道庁長官が認めるところとなったものである。
昭和40年1月1日、山部村は町制を施行し、山部町となった。
その後、翌昭和41年5月1日に富良野市と合併した。

カテゴリー